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橋本努『自由の論法 ポパー・ミーゼス・ハイエク』

創文社、1994

「まえがき」&「目次」

 


 

まえがき

 


本書は、副題にある三人の思想家――ポパー・ミーゼス・ハイエク――について展望し、この三人の自由主義思想を建設的な方向で批判的に乗り超えようとする試みである。

ポパー、ミーゼス、ハイエクは皆、ナチスから逃れて亡命したウィーン出身の学者であり、社会主義の手から開かれた社会を防衛することに身を投じた最も偉大な思想家たちである。しかし意外なことに、彼らがとった最初の戦略は、「社会科学方法論」を研究することであった。なぜだろうか。それには次のような事情が考えられるだろう。社会科学者、とりわけ経済学者は、資本主義/社会主義の是非をめぐって長い間議論を戦わせてきた。その場合、どちらの制度の方が望ましいかについて、論者たちは「科学的」に解明しようと努力した。しかし「科学」とは何であるかについて合意がなかった以上、社会主義/資本主義の是非をめぐる「科学的」議論は、問題の解決を、何が科学的であるかを規定する「方法論」のレベルにまで先送りしていたのであった。それゆえ社会科学方法論の解明は、体制選択をめぐる問題に最終的な解決を与えるための重要な研究として位置づけられていたのである。

しかし論争は、科学および科学的方法の定義をめぐって泥沼化する。思想家はそれぞれ、社会科学の方法を都合のいいように規定することによって、自分の思想的基礎を固めることができる状況にあったからである。そこでは、真理の発見を導くという純粋に学問的な問題の解決が目指されているのではない。また、対立する諸々の思想をできるだけ客観的に検討するような方法を考案しようというのでもない。むしろ、方法論が価値原理に中立的ではなく、思想の基礎論を積極的に担うという状況、あるいは、相手の方法論を批判することが、その思想的基礎にたいして最も強力な批判になるという状況、ここに開かれた社会の思想的基礎をめぐる端緒の問題領域があるのだ。

序章では、この問題を思想史の中に位置づけて、本書の問題関心を明確にする。次に、第一部では、まず第一章において、方法論の一般理論を提示する。この理論装置は、別の点から方法論に関心をもった読者の存在を想定して、本書の範囲を超えて普遍化できるように、抽象度を高めて頑丈に構築してある。第二章以下では、具体的に、ポパー・ミーゼス・ハイエクのテクストを素材にして、「方法の思想負荷性」とその脱思想化過程を分析する。第五章では、第一部の議論を総括するとともに、本書の考察から得られる思想史命題を定式化している。それゆえ、最も重要なのはこの第五章である。第二部では、ポパー・ミーゼス・ハイエクの思想について比較検討する。そして最後にあとがきにおいて、残された今後の研究プログラムを明示する。

自由主義の問題闘は、社会主義の現実的崩壊とともに変容しつつある。彼ら三人にとって最も重要であった問題は、社会主義と資本主義の制度的優劣を決着することにあった。現在ではむしろ、問題は、どのような形態の市場経済が望ましいか、というかたちに移行している。この移行に応じて、自由の論じ方も変容せざるを得ないだろう。新たな議論の地平が設定されねばならないのである。しかしながら我が国においては社会思想ないし社会哲学に携わる論者たちが、これまで自由主義を思想の問題として真剣に考えることがあまりなかったという、戦後思想の反省すべき事情がある。最近の政治状況の混迷は自由社会を論じる知識人の思想的貧困と共犯関係にあるようにも思われる。新たな議論の地平という以前に、自由主義思想の歴史について捉え返すことのほうが先決ではないか。

本書が取り上げる三人の思想家は、科学的社会主義にたいして果敢に立ち向かい、自由社会の思想的基礎を構築しようとした点で一致する。しかし、到達した結論はそれぞれ異なっており、そこには議論の奥行きと豊かさがある。この三人の思想家を批判的に吟味することを通じて、自由の論じ方の歴史、およびその新たな可能性について検討することは、来たるべき世代の思索に導きの糸を与えるだろう。本書の第一部では、三人の思想家が自由主思想を方法論に託して闘うという論法を批判的に検討し、彼らの議論をなぜ乗り超えなくてはならないのかについて、思想史的な観点から理由を与える。また第二部では、自由主義思想をめぐる議論の素材と土俵を、いっそう豊鏡なかたちで読者に提供することを任務としている。

本書は修士論文をもとに加筆・修正したものである。したがってその成立までにいろいろな方の助力を得ている。振り返ってみると横浜国立大学時代の指導教官である鬼塚雄丞先生そして社会思想史の斎藤純一先生との出会いがなければ私は学道を志していなかったであろう。学部生時代の私にとって社会科学とは当時流行していた文芸的なマルクス論といったものにすぎなかったのであるが、両先生方から私は、学問や社会問題に対する真撃な態度を学んだ。東京大学大学院においては、指導教宮の松原隆一郎先生と二人だけのゼミを行う機会に恵まれた。極めてインテンシヴな松原先生との議論は、まさに本書が成立する現場であり本書成立以降も、今度は博士論文を執筆するという企図の下に続行される。千葉大学の嶋津格先生からは、著作や議論を通じて決定的な影響を受けた。影響は、その魅力的な話し方にまで及ぶ。嶋津先生には私の修士論文を通読していただいた。出版に漕ぎつけたのも先生が本書の意義を認めてくださったからに他ならない。私は嶋津流ハイエキアンから多くを学び、見解を共にしているが、しかし私の目指す議論とは重要なところで異なってくるような気がする。が、この点が私にはまだ明確になっていない以上、嶋津先生とは今後も仮設的・現実的な論争を繰り返してゆきたい。また、本書の成立背景として、在野の研究者、井上一夫氏の功績は計り知れない。氏は、リベラリズムを問題の中心に据え、自ら新自由主義懇談会を運営するとともに国の内外の文献を網羅的に収集している。私が短時間で多くの文献に当たることができたのは井上氏のすぐれた文献リストと資料提供によるところが大きい。議論共同体としては、相関社会科学専攻の先生方や院生諸氏、広範かつ精力的な読書と議論を重ねた社会科学者のための古典読書会のメンバー、本書の一部を発表した経済理論史研究会およびポパー哲学研究会、経済学部大学院の伊藤誠ゼ、そして言語研究会に、とりわけお世話になってきた。このように、学際的な研究環境において批判に聞かれた学問作法を」養うことができたということは、私にとって何よりの財産である。

本書の出版の機会を与えてくださった創文社の相川養三氏には、心から感謝の意を表したい。学者としては半人前の私に執筆させるという決断は、おそらく危険で冒険的なものであったにちがいない。氏との会話を通じて、私は学問に携わる者の社会的責任というものを痛感した。本書がどれだけの成果を上げたのかについては読者の批判にさらされてみなければ分からないが、氏の期待に添うよう精進してきたことを、氏に対する感謝の念とともに記しておきたい。

 

一九九四年一〇月

橋本 努

 

 


 

目次

 


 

まえがき

 

序章 科学の時代

1 問題精神としての科学

2 科学的自由王義の成立

3 体制問題をめぐる知性史をどう捉えるか

4 社会科学の転換点

5 以下の議論の構成について

 

第一部 方法の思想負荷性

 

第一章 方法論の理論

1 問題としての方法

2 方法論とは何か

3 方法論の機能分析

a第一類型――正当化  b 第二類型――発見法  C 第三類型――領域設定

d 第四類型――自己了解  e第五類型――限界論  f 第六類型――価値操作

 

第二章 思想負荷性の解釈

  1 ポパー

  2 ミーゼス

  3 ハイエク

 

第三章 社会主義経済計算論争における方法の思想負荷性

  1 論争の標準的解釈とD・ラボアの再解釈

  2 論争の代替的整理

  3 方法論との関係

 

第四章 反《歴史主義》方法論の内在的批判

  1 ポパー批判

  2 ミーゼス批判

  3 ハイエク批判

 

第五章 方法から思想へ

 

 

第二部 負荷される思想の分析

 

第六章 個人王義の位相

1 方法論

2 社会論

3 思想

 

第七章 合理王義と功利王義

1 批判的合理主義

2 実践的合理主義と功利主義

3 反合理王義

 

第八章 政治経済の政策認識

1 部分社会工学

2 社会工学批判

3 介入主義

 

第九章 自由主義

  1 自由の意味

  2 ハイエクの自由論

  3 自由の成長論

 

 

あとがき 残された課題

 

参考文献

 

索引(人名・事項)